「お兄ちゃんでしょう?」
ツバサはその顔を覗きこむ。
間違いない。長く会わなかったとしても、見間違えるはずはない。
「お兄ちゃん。やっぱりお兄ちゃんね」
あぁ、兄だ。
左手を口に当てる。
少し窶れた感じはするが、品の良い立ち居振る舞いや物静かな顔立ちは、間違いなく昔のままだ。
懐かしさのような感情が、胸の内で膨れあがる。
会ったら何を言おうか、どうやって笑えばいいだろうか、いろいろ考えてきた。だが、いざ向かい合うと、そのすべてが吹き飛んでしまう。
少しだけ右手を伸ばす。
「お兄ちゃん、少し痩せたね」
言いながらゆっくりと伸ばされる右手。魁流はすばやく背を向けた。
「お兄ちゃん?」
歩き出す魁流を慌てて追う。
「待って」
追いかけて二人、エレベーターホールへと入る。
「お兄ちゃん、待って。どうして逃げるの?」
「人違いだ」
短く遮る。
「俺はお前なんか知らない」
ツバサの顔から血の気が引いた。全身が硬直し、息すらできない。
「どうして?」
声が擦れる。喉が痛い。
「どうして、そうやって避けるの?」
「やめろ、本当に人違いだ」
「どうしてそんな嘘付くの?」
「嘘じゃない」
顔を向けず、ひたすら繰り返す。
「本当に知らない」
「私と会いたくないの? 私がお兄ちゃんを嫌っていたから? だから?」
魁流の正面に回りこむ。
「その事だったら謝る。ごめんなさい」
顔を覗きこむ。
「ごめんなさい。私が悪かったの。私が幼稚だったの」
必死に訴える。
「私がお兄ちゃんに嫉妬してたの」
「嫉妬?」
思わず聞き返し、慌てて口を押さえる。
「何をやってもお兄ちゃんに敵わないから、だから嫉妬してただけ」
早口で訴える。
「全部私が悪いの。謝る。謝るから、だから、ね、だから少しだけ、私の話を聞いて」
「聞く必要なんか無い」
ポンッと控えめな音がして、エレベーターの扉が開く。魁流はツバサを押しのけて強引に乗り込む。
「お兄ちゃん」
続いて乗り込もうとするツバサを、魁流は冷たい視線で押し留めた。
「来るな」
擦れる声。睨まれて、ツバサの足が止まる。
「来るな、これ以上来ると、人を呼ぶぞ」
「お兄ちゃん」
向い合う二人の間を、扉が無情に隔ててしまった。
お兄ちゃん、どうして。
閉じた扉を呆然と見つめる。別のエレベーターが到着し、男性が一人、降りてくる。呆けているツバサを訝しげに見つめ、だが何も言わずに去っていく。
こんなところに居たら、不審者だと思われてしまう。
だがツバサは動けない。直前の、自分へ向けられた刺すような視線が忘れられない。
突然現れ、そして一瞬で去ってしまった。時間にして三分も経っていない。あまりにも呆気ない、まるで突風のような再会だった。
あれが、お兄ちゃん?
記憶の中の兄は、あのような瞳でツバサを睨む事など無かった。どんなにツバサが酷い事を言っても、怒ったことなど一度も無かった。
お兄ちゃん、どうして?
だが、思い直す。
大変な経験をしたんだ。鈴さんがあんな事になって、辛かったはずだ。学校を辞めて家を出て、私の知らない時間を過ごしてきたんだ。
人間は変わるものだ。兄がツバサの知らない表情を見せても、不思議ではない。
だがそれでも、ツバサは信じる。
兄は兄だ。どんなに変わっても、兄は優しい兄のはずだ。だって、今までそう信じてきたのだから。
このホテルに居る事はわかった。容姿も覚えた。もっと根気強く通えば、いつかはきっと、必ずちゃんと会ってくれるはず。
そう決意し、右手の拳を胸元で握り締めた時、背後から間延びしたような声を掛けられた。
「で? いつまでそこに突っ立ってんの?」
驚いて振り返る。少し垂れた目が優しく笑った。
「今回は空振りだな」
「コウ」
あまりの驚きに息が詰まりそう。
「どうしてここに」
「怒るなよ。大迫に聞いた」
「おお…、美鶴?」
「怒るなよ」
ツバサが何かを言う前にコウが念を押す。
「俺が無理矢理に聞きだしたんだ。アイツは悪くねぇよ」
「それって」
いまだに動悸の治まらない胸に手を当て、混乱する頭で考える。そんなツバサの後頭部をポンッと叩き、コウが口元を緩めた。
「まぁ、なんにせよ、こんなところで立ち話なんてのは他の奴らに迷惑だ」
言いながら、緩く左の手首を握る。
「どこかに座らないか?」
そうして少し悪戯っぽく笑った。
「どうせなら、ケーキでも食べてさ」
「へ?」
驚いて目を丸くする先で、コウが背後を親指で指す。その先には、五時までのケーキバイキング。
「少し、空いてきたみたいだぜ」
「なっなっ」
途端、ツバサは頬が紅潮するのを感じた。
「ひょっとして、ずっと私を見てたとか?」
「まぁね。ケーキ食いたそうにしてるところとかは、バッチリと」
「なな、なっ 何で?」
「何でって、そうだなぁ」
コウは惚けたように顎に手を当て、上目遣いで考え、やがてニンマリと笑った。そうして顔を寄せてくる。
「お前の事が、好きだから」
「へ?」
と、ツバサが何かを言う前に、その唇に暖かいものが重なる。
じんわりと暖かくて、柔らかくて、レモンスカッシュの味がする。
あ、そうか、コウって炭酸好きだもんね。って、え?
「ぬ、ぬわぁっ」
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